存在するのは今

徳島県の札所への道には山道がけっこう多くあります。有名なところだと12番札所の焼山寺に行くときの「遍路ころがし」と呼ばれる場所がありますね。アップダウンの激しい山道を約12kmも登ります。

お寺自体が僧侶の修行場という性質がある以上、山の中にあるというのはごくごく自然なことなのですが、普段歩き慣れていない場所を歩くということで大変に感じることもありました。

これは確か、20番鶴林寺と21番太龍寺あたりの山道で感じたことです。ちなみにここも「遍路転がし」と呼ばれる場所で、「1に焼山、2にお鶴、3に太龍」という呼び方がある遍路の難所と呼ばれている場所です。

山道は登りも大変なのですが、実は下りも結構大変で、ちょっと油断をしたり気を抜いてしまったりすると足を滑らせてしまうこともあります。舗装されたアスファルトの上り下りと違って、滑りやすい岩や土、泥水の上を大きな荷物を背負って歩くわけですから、一気に降りるわけにはいかず、慎重に一歩ずつ足元を確認しながら降りていきます。しかも、ちょっと落ちたら藪の中だったり、高い斜面だったりもするので余計注意深くなります。滑らないように足の指先周辺に力を入れるため、この辺りがマメになってしまったりもします。

登りも登りで大変ですが、下りは神経をとても使うという意味では同じくらい大変かもしれません。

そんな状況では、あれこれ考えを巡らせている暇なんてありません。疲れとか不満とか過去のイライラとかを考えていたら、目の前にあるバランスのとれる足場を見失ってしまい、大事故につながる可能性があるので、つねに目前の足を置く場所に集中せざるを得ません。

「次はここに右足を置いて、金剛杖でこの場所を抑えながらバランスをとって、左足を前に出して…」みたいな感じです。

そして山道も終わり、田舎道を歩いているときにふと気づいたのですが、山道の下りでやっていたことって、一種の瞑想だということです。過去の出来事や未来の不安にとらわれず、ひたすら目の前の現実に意識を向けていたのです。ヴィパッサナー瞑想に近いものだったかもしれません。

目の前にある足場、草、土、石、空気、聞こえてくる音、触れている木の感触、漂う匂いなど、五感を駆使してひたすらその時に起こっているすべてを感じ取っていました。そのときには将来の不安や過去のトラウマも一切なく、あるのは「今」だけでした。

これまで多くの自己啓発や精神世界の本を読んできて、自分でもこのブログで発信してきましたが、ここまで強く「存在するのは今」だと感じたことはありませんでした。知識で得たり、チャネリングで得たりした情報でも「今にフォーカスする」ことの重要性は知っていましたが、お遍路に出て実体験を通して強烈に実感することになりました。

どうしても頭でっかちになりがちな僕ですが、そういった体験をすることで改めて体感で理解する必要があったからこそ、歩き遍路を選んだのかもしれません。そうそう。徳島を遍路している途中で車やタクシーに切り替えようかな、と思ったこともあったのですが、「阿波の国(徳島県)の札所は歩きで」というお導き?のようなものがあったので、23番札所の薬王寺までは歩きました。今思えば、そこに気づかせるために、歩きを選んだのかもしれません。

そういったことを考えていると、やっぱり精神世界って知識と体験のバランスをとっていくことで「気づき」を得るのかなぁ、と思います。どっちかに偏りすぎるのではなく、どっちも大切にする。お金をかけてもかけなくてもいいし、時間をかけてもかけなくてもいいし、派手でも地味でもいいけど、大切なのは必ず存在する宇宙の真実に気づくこと。そういうことなのかな。

この世では「今」という時間しか存在しません。今に意識を向けることで、神としての自分に気づいていくのです。

投稿者: dragaliens

30代男性。元教師。 見えない世界に興味がある。 自分を癒やす旅を続けている。

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