歩き、車、バス、タクシー…お遍路の形は人それぞれ

今回のお遍路では、1番札所霊山寺~23番札所薬王寺を歩き、23番札所薬王寺~31番札所竹林寺をタクシー+公共交通機関で回りました。

「お遍路ってやっぱり歩かないと意味がないんじゃないの?」と思われる方もいるかもしれませんし、実は僕も少しそう思っていました。

実際にお遍路に行ってみて、その考えは消えました。

まず、現地で会ったお遍路さんは全員(県外移動が可能になった直後なのであまり多くはなかったのですが)思い思いの巡り方でお遍路を楽しんでいました。夫婦でマイカーで回っていた方、全部歩きの方、原付の方、友人同士で車2台に分けて回っていた方、マウンテンバイクの方、部分的に歩きで回ってそれ以外は公共交通機関で回っていた方….実に多種多様な回り方をしていました。ちなみに個人的な印象ですが、お遍路さんの9割くらいが車でした。

全員に共通したのが「楽しんで」回っていること。勿論、お寺にお参りするときの真摯な心は必ず持っているのですが、どなたも旅を楽しんでいるのが印象的でした。

巡礼という宗教上の修行とはいえ、そこは旅。禊や罪滅ぼしといった目的でお遍路をする方もいるでしょうが、そうでない場合はやはり旅を満喫して心身のリセットをすることに重きを置く人が多いです。

僕は歩き遍路で回っているとき、これは確か17番井戸寺を回っていたあたりだと思うのですが、歩き遍路の限界を感じていました。

まず疲労。足には自信がありましたが、さすがに毎日20km~30km前後の歩行(しかも時々山道あり)には疲れました。疲労が引き金となるような思わぬアクシデントも避けたかったです。それでも毎日目標ペースを維持してプラン通りに歩けたことに関しては自分を褒めてあげたいです。

そしてもう一つの理由、実はこれは疲労と同じくらい大きな理由なのですが、歩き遍路だとゆっくりお寺をお参り&見学できないこと。長い距離を歩いている場合、お寺はもはや休憩所。お経は簡略化してあげて(南大師遍照金剛と3回唱えるのみ)、納経をしてもらって、休憩したらすぐさま次の札所という流れでした。あまり伸び伸びとしてしまうと、17時の納経終了時間に間に合わないからですね。せっかく四国に来たのに、じっくりお寺に参拝できない&お参りできないことに、疑問を抱いていました。

そのため、徳島県最後の札所である薬王寺まで歩いたら、あとはお遍路タクシーで回ろうという考えになりました。結果的にはこれが大正解。お遍路タクシーの運転手さんたちは全員、先達(お遍路の作法、お寺の由来、仏教の知識…等をすべて熟知したお遍路の先生)の資格を持っている方たちだったので、正しい参拝の方法やお寺の由来などを知ることができました。しかも札所以外の場所も行ってくれたり、地元の名物を出すお店をおしえてくれたり、十分にじっくりお寺の中を見る時間をとってくれたりと、とても充実した時間を過ごすことができました。しかもタクシーに乗ったおかげで、この記事で書いたような情報も得ることができました。

ただ、勿論、歩き遍路のときにも素晴らしい体験ができました。歩きだからこその達成感を味わうことができました。特に焼山寺、鶴林寺、太龍寺といった遍路ころがしがあるお寺に辿り着いたことは大きな自信になりました。また、道中様々な地元の方たちにお接待をしていただき、人の優しさに触れることができました。同じ歩き遍路の人とはお互いを励まし合うことも大切な経験でした。

何が言いたいかというと、お遍路の巡り方は自分に合ったもので良いということです。無理せず、それでも修行の一環だから甘えず、しかし楽しんで旅ができるスタイルが一番なのかな、と思いました。仏教では釈迦が出家した後に6年くらいほとんど飲まず食わずの苦行をしましたが、そこで釈迦自信が気づいたのが、「中道」の大切さ。自分を苦しめすぎず、かといって甘やかしすぎず、バランスをとることで悟りに近づくのだと気づいたのですが、まさにそれはお遍路にも言えることだな、と個人的には思います。

お遍路って、回り方もそうですが、結構フリースタイルで皆さん楽しんでいます。特定の札所にしかいかない方もいますし、特定の県の札所のみ回る方とかもいました。

これは少し大げさな話かもしれませんが、物事って枠にとらわれすぎる必要はあまりないんじゃないかと思います。クサい表現かもしれませんが、やはり大切なのはそこに「真心(まごころ)」があるかで、その真心を発するために、自分の現状に合わせて調整するっていうのは宗教もそうですが、仕事や私生活においても大切なことだと思うんですよね。とはいえそこもやはり中道、バランスで、「伝統を重んじつつも革新を取り入れる」、「厳しくも愛ある指摘をする」、「スピリチュアルを出しつつも、現実性も出す」といったことは必要で、大切なのはそこに心が込められているかどうかなのではないでしょうか。そして、私たちが養ったほうがいいのは「見てくれ」の先にある「真心」を視る力なのではないのでしょうか。

形は違っても、想いは本物。魂から生まれた想いであれば、どんな形式や方法であっても、神羅万象に届くものです。

投稿者: dragaliens

30代男性。元教師。 見えない世界に興味がある。 自分を癒やす旅を続けている。

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