憎いあの野郎が許せなくてもいい

どうしても許せない人って誰にでもいると思います。

僕にもいます。スピリチュアルな仕事をしている人は憎しみを持たない、と思っている方からは誤解されがちなのですが、許せない人も、憎い人も、怒りが収まらない人もいます。一時期に比べれば大分少なくなったし、恨みの度合いも低くなったとはいえ、います。

最近では、「許せてもいいし、許せなくてもいい」と思うようになりました。

そしてそれは、「一時的に忘れる」という逃避でも、「自分が悪かったから」という過度の自己卑下でも、「カルマの法則だから」という非三次元的な説明でもなく、ただどちらでもいい、と思うようになったのです。

許すか、許さないか。これは判断(ジャッジ)であり、それは思考です。思考も大切なのですが、人間がドツボにハマってしまうのも思考なのです。

それを取り外して、自分を安心させてあげる。許す、許さないという選択のプレッシャー、そして選択後の後悔や辛さは、判断をするからこそ発生するのです。

ここでちょっと2点フォローしておくと、一つ目として、思考は三次元的な世界を生きていく際には必要なものということ。お金の管理、マナーや振る舞い、常識など(それは高次元から見ると原始的なものらしいのですが、少なくとも今の地球上で生きる我々には必要な能力です)は思考の力で、そのおかげで生き永らえている部分もあるわけです。思考の暴走、極端な判断、魂との乖離…等が問題であり、思考自体は問題ではないのです(説明の便宜上、思考=悪とミスリードするような書き方になってしまうこともあります)。

二つ目として、これはスピリチュアルな側面の話であって、現実的な話ではないということ。必要な場合は、泣き寝入りせずに訴訟を起こすことも大切だと僕は思います。裁判に勝つ、負ける、という勝者と敗者という側面ではなく、心の動きの説明をしていると思ってください。

話を元に戻します。

「アイツが許せねぇ~」なんて思っていると、ついつい頭の中でその人の嫌なところをあれこれと分析したり、妄想で復讐しようとしたりして、その後に「こんなことを考える自分って駄目なヤツだなぁ」と意気消沈してしまいます。「よし!人を憎まない、恨まない!」と思っていても、数時間後には「アイツめ~」とループにハマっていることってよくあると思います。

このとき、その人は「憎たらしい人と同じ土俵に立ってしまっている」のです。これはスピリチュアルに詳しい人なら分かると思いますが、所謂引き寄せの法則なのですね。同じエネルギーで引き合っているのです。

そして、スピリチュアルの本では、「同じ土俵から離れましょう」といったことが書いてあるのですが、それが簡単に出来たらいいのにと思ったのは僕だけではないはずです。結構難易度が高いはず。

だからこそ、「どちらでもいい」というスタンスって大切なんじゃないかな、と思います。許してしまう自分が損したように思えて、一方で許さない自分が狭量だと思えてしまうのなら、その時々でどちらに転んでも良いという柔軟性を自分に与えてあげるのです。

これはつまり、多面的な自分を受け入れてあげることに繋がります。人間って聖人君子な面もあれば、極悪非道な顔もあります。愛情に溢れた自分、ダメダメな自分、有能な自分、恨みっぽい自分…等々、人の性格や性質ってそんな単純なものではないので、自分の中に「許す自分」もいれば「許せない自分」もいますし、それはごく自然なことだと思うのです。

許せてもいい、許せなくてもいい。自分は許すだけの存在でも、許せないだけの存在でもなく、多くの側面があるんだ、と分かるだけでも、「許すvs許さない」のどちらかに決めなくてはいけないというプレッシャーのある無限ループから外れることはできるのです。

こんなことを思ったのは、中島みゆきの『空と君のあいだに』を聴いていたときでした。

君がすさんだ瞳で

強がるのがとても痛い

憎むことでいつまでも

あいつに縛られないで

―『空と君のあいだに』中島みゆき

投稿者: dragaliens

30代男性。元教師。 見えない世界に興味がある。 自分を癒やす旅を続けている。

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1件のコメント

  1. 毎回、本当にタイムリーで、ありがたいです。今回の内容、ずっとずっとずっと悩んでおりました。ありがとうございます。m(__)m

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