論破論破というけれど

9月上旬は涼しかったのに、最近また蒸し暑くなっていますね。昨日は台風一過だから仕方ないといえば仕方ないのですが、今日まで暑い日がこうも続くと秋までまだまだ遠いのかなぁ、と思ってしまいます。

とは言え、今日は彼岸の入り。「暑さ寒さも彼岸まで」とは言いますから、そろそろ本格的に涼しくなってくるのかなぁと期待しています。

さて、最近タイトルにもある「論破(ろんぱ)」という言葉が耳に入ってきます。ただ、聞いていると少し自分のイメージしている論破と違うなぁという印象を受けたので、まとめるためにも記事で書いていきたいと思います。

まず論破の定義ですが、色々と辞書を見たところ、「議論で論理的に相手の説を破ること」というのが大体共通したところでした。

ここで大事なのが、「議論で」と、「論理的に」という部分ですね。

「議論」というのは、話し合い、討論、世間話、会議…など様々なシチュエーションの会話を想定することができる、幅広い意味を持った単語です。そのため、この場合の議論というのがどういった状況のものを指しているのかを決めることは難しいです。

だからこそ、「論理的に」という部分が重要になってきます。議論を論理的に行うためには、「適切な場」、「平等な発言の機会」、「エビデンス(証拠)」が必要だなと個人的には思います。

これら3つの条件をクリアしている議論というと、「ディベート(討論)」と「裁判」をイメージします。

僕は大学時代にディベートの授業を取ったことがあるのですが、ディベートでは「賛成」、「反対」、「ジャッジ」の3グループ3名ずつに分かれます。賛成と反対はそれぞれ平等に「立論(自分たちの意見を述べる)」、「質疑(相手の話の不明点や疑問点を尋ねる)」、「反駁(相手の意見の不十分な部分を指摘する)」、「最終立論(改めて自分たちの意見を述べる)」ということを交代で行うのですが、平等な時間が与えられています。勿論、相手が話している最中に話を遮ることはしてはいけませんし(できるタイプのディベート法もあります)、反駁で立論するという後出しや、質疑で反駁するといったこともできません。そして最終的にはジャッジが賛成、反対の立場のどちらがより論理的だったのかを判断します。

裁判も、原告側と被告側(民事)、検察側と被告+弁護士(刑事)、裁判長(あるいは裁判員)に分かれていて、それぞれが主張や反駁する機会を平等に与えられています。

また、ディベートでも裁判でも、エビデンス(証拠資料)が立論なり主張なりに必要になってきます。例えば、「地球環境は悪化しているからプラスチックを生産してはいけない」というのは、このままではただの感想なりコメントになってしまいます。そこで、「地球環境が悪化しているというデータ」、「プラスチックの生産が地球環境の悪化を助長している資料」が必要になります。また、エビデンスは信頼性のあるものでなければいけないので、ネットの書き込みや人のうわさ話ではなく、「大学の研究資料」や「個人名や所属がはっきりとわかっている文書」といった確実性のあるものでなければいけません。

長々と話してきましたが、何を言いたいのかというと、個人的には「論破をする」ということは、そういった「人数とルールが明確に決められた議論で、平等な発言の機会が与えられ、証拠で裏付けされた論理的な主張」が前提条件として整った場で、相手の論理の不十分な部分をつくといったものである必要があると考えています。

世の中の「論破」されているものを見てみると、大声で相手の発言をかき消そうとしたり、エビデンスが不確かあるいは無い主張でゴリ押したり、極端なものだと人格攻撃にまで発展してしまったりしているものもあるようです。そういったものは論破ではなく、ただの嫌がらせ、ハラスメント以外の何物でもないと思っています。

だから、この記事を読んでいる人が「論破された」と思っていることも、ひょっとしたら論破ではなく、ただの嫌がらせだったり、あるいはそうでなかったとしてもただの愚痴大会だったりすることもある、と思ってもらいたいのです。酒の場で色々と言われて「論破された」と感じても、お酒が入っていては論理性を担保できませんし、井戸端会議だったら平等に発言の機会が無いのでそれは議論ではありません。

また逆に、自分が論破したと思っても、それは果たして論理的だったのか、証拠資料があったのか、相手にも平等な機会が与えられたか、そこに利害関係の無い第三者の審判員がいたのかを考えてみる必要があります。そうでなければ、それは論破ではなく、ただの会話、感想、コメントにすぎない可能性があります。

余談ですが、論破されると気持ちがいいです。これは大学時代に僕がディベートの授業で感じたことなのですが、自分の立論の穴を突かれると、「あ、確かにここが弱い!」とハッキリとわかり、自分のためになるからですね。逆に、論破をしても気持ちがいいです。それは相手を負かしたという気持ちが出てくるからではなく、相手に自分の論理が通じたとわかるからですね。

だからこそ、テレビの討論番組とか、教師時代の教員会議とか、そういったものを見たり、その場にいたりすると体調が悪くなることがあったんです。大学のディベートの授業では全くならなかったのに、そういった場ではなってしまったのです。それは、どこかで自分が「相手を論破してやろう」とか、「相手に論破されたくない」とか、「論破されて悔しい」といったその場にいる人の感情が流れ込んできたからなのかもしれません。

会社の会議、家族の話し合い、友人同士の会話…等、話しをする場面は多くあると思います。そこで「論破された/してやった」と思ったとしても、それは論破ではない、という状況が多いのかもしれない、という話でした。

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投稿者: dragaliens

30代男性。元教師。 見えない世界に興味がある。 自分を癒やす旅を続けている。

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