CE-5コンタクトイベントに参加しました 前編

※こちらの記事に記載されている内容、効果、影響、結果等は個人の感想です。同様の、あるいは、類似したセッションを受けたりイベントに参加したりしても記載されているようなことが起きるとは限りません。

5月28日(土)~29日(日)に兵庫県で開催されたJCETIのCE-5コンタクトイベントに参加しました!

今までJCETIに関しては個人セッションであるLiquid Soulしか受けたことがありませんでした。CE-5コンタクトイベントは前々から参加したいな~、とは思っていたのですが、中々参加することができずにいたのです。

5月の兵庫県で開催された今回のイベントのことを初めて知ったのは4月のこと。でもその時は参加するつもりは無く、「あ、CE-5あるんだ~」ぐらいにしか思っていませんでした。

しかしGWが過ぎた頃、「そういえば…」と思い出して、改めてJCETIのウェブサイトを見ていたら、せっかくの機会だから行ってみようかな、と思うように。「でも奈良に二泊三日の旅行に行って、その1週間後に兵庫に一泊二日の旅行に行くとかさすがにアクティブすぎでしょ」等と、頭では考えていたのですが….いつの間にか申し込みのメールを送っていました。

そしてあれよあれよという間に参加費の振り込みも済み、イベント参加が確定したのです。

数日経ったときにJCETIのウェブサイトを見ていたら、7月に山梨でCE-5コンタクトイベントの募集が。神奈川県在住の自分としては、兵庫県に行くよりも山梨県の方が圧倒的に近いので、「兵庫をキャンセルして山梨にするか…?」と思うこともあったのですが、なぜかそれをせず。キャンセルを考えたけれど、実際に行動するところまではなぜかいかなかったのです。イベントが終わってこのブログを書いているタイミングから見ると、それはやはり今回のイベントに参加することに意味があったからかもしれません。ちょっとかっこいい言い方をすれば、「導かれた」からです。

さて、そんなわけで5月28日(土)は早起きをしてアパートを出て、新横浜から一路、新大阪へ。

CE-5イベントの会場は「うづかの森」という廃校を改装した研修施設。兵庫県の山の中にあります。地理的には大阪・京都からアクセスをするのですが、鳥取県との県境付近にあるため、実は鳥取からのアプローチも可というすごい場所にあります。そしていくつかアクセスの方法があったのですが、「乗り換えを可能な限り少なくして煩わしさを減らしたい」という気持ちを最優先して、新大阪から高速バスで、うづかの森から最寄りのバス停に行く、というルートで行きました。

新大阪でランチを食べた後に高速バスへ。ここから2時間20分のバス旅でした。事前に調べていたからある程度覚悟は出来ていたとはいえ、今回は主に時間的な意味で移動が大変でした。6時30分頃にアパートを出て15時30分頃にうづかの森に到着したので、9時間かけての移動。途中新大阪で2時間弱くらいのランチ時間を引いたとしても約7時間。長旅でした。

高速バスも、やはり週末のせいか途中で道路が混んでいたり、道路工事の片側通行で時間がかかったりして、うづかの森の最寄りである「福岡ハチ北口」の到着が40分くらい遅れてしまったのです。

そして、ハチ北口から歩いてすぐかと思ったら、これまた約1km、途中上り坂のある道をキャリーケースを引きながら歩かなくてはならず。しかもこの日は気温が高かったせいか、道のど真ん中にデカいアオダイショウが鎮座しているというハプニングが起きましたが、近づいたら道の脇に避けてくれました。ちなみに後でイベント参加者の方にこの話をしたら、アオダイショウは幸運の象徴で、特に金運とのこと。

今回のイベントは15時30分からライブ、その後夕食など自由時間を挟んで、20時からコンタクトイベントという二部構成でした。うづかの森に到着した時は15時31分。バスを降りた時点で遅れることは覚悟していたので、「遅れてすみません….」と思いながら施設に入っていくと、ライブイベントが始まっている気配が皆無で、参加者の皆さんやグレゴリーさんやスタッフさんたちも、仲良く談笑中。受付担当の方曰く、どうやら開始時間を10分延ばして15時40分開始にしたとのことで、なんと幸運なことに延びたおかげでライブの開始時間に間に合わせることができたのです!ひょっとしたらアオダイショウのおかげなのかもしれません。ありがとう、アオダイショウ。気持ち悪いと思ってごめんね。

その後チェックインをして大きい荷物だけを部屋に置いて、ライブ会場へ。

ちなみに今回、宿泊する男性は僕一人だけらしく、なんと大部屋を一人で使わせてもらえることに。贅沢です。

15時40分、ライブが始まりました。

ライブはシタールというインド楽器の奏者であるミナクマリさんの演奏から。そしてグレゴリーさんと二人の演奏のあと、休憩を挟んでグレゴリーさんの新曲披露がありました。

僕は基本、他人の演奏やパフォーマンスは座って静かに聞いているタイプなのですが、なぜかこの時は集中力が切れて、体勢を変えたり、ボーッとしてしまったりすることが多くなりました。というのも、宇宙人が何やら急かしていたようで、「早く!早く!」といった意識をキャッチしてしまったからです(音楽で意識が緩んだせいか受け取りやすくなったのかもしれません)。恐らく、早くコンタクトワークをしろ、という意味だったと思います。

でも人間には段取りとか予定とかがあるし、まだ空も明るかったので、申し訳ないんですが無視。

そうしたら今度、ギターを弾いているグレゴリーさんを眺めていたら、突然彼の前世らしきものがボヤッと浮かんできたのです。この件に関しては後編で詳しくお伝えします。

ライブ終了後は夕食のお弁当を他の参加者の方たちといただきました。

そして20時。いよいよCE-5コンタクトが始まりました。

【CE-5コンタクトイベントに参加しました 後編】に続く。

初夏の奈良旅 後編

前回の記事の続きです。

3日目の朝は早めに起きて、大神神社へ早朝参拝に行きました。

三輪の早朝参拝は行けるときには行くようにしているのですが、やはりいいですね。神社仏閣を参拝するときは朝が良いと言われていますが、朝は朝でも早朝の時間は特に良いと思います。空気が清浄で、しかも参拝客があまりいないから煩わしさを感じないので、のびのびとお参りをすることができます。

狭井神社まで行ってご神水をいただき、展望台で三輪の町をしばらく眺めたあと、お宿に戻りました。

朝食をいただいた後、ゆっくりと準備をしてチェックアウト。電車の時間までお宿の女将さんと雑談していました。「またいらしてくださいね。お一人でも、お友達とでも」と、女将さん。今年の秋くらいに来ようかな、とその時思いました。

お宿を後にして、一路奈良へ。今回は奈良で少し観光をしてから帰ることにしました。

まずは前々から行ってみたかった興福寺へ。

興福寺と言えば、阿修羅像ですよね。実は阿修羅像をはじめとした八部衆を見たかったんです。現在は東金堂と国宝館を拝観することができます。阿修羅は国宝館の方で見ることができるので、チケットを買うときは東金堂と国宝館のセットで買うことをオススメします。

阿修羅は「修羅場」という言葉の由来になった仏様です。阿修羅には娘がいたのですが、ある日帝釈天がその娘に一目ぼれをして攫ってしまい、更には関係を持ってしまいます。これに激怒した阿修羅が帝釈天に対して戦いを挑みます。長引く戦いの中でついに、娘が帝釈天に心から惚れ込んでいて、更には子供を授かっているということが明らかになるのですが、それでも戦いは激しさを増して止むことは無く、最終的には釈迦に諭されて、仏教を守る神となりました。

そんな経緯を聴くと、「そりゃあ自分の娘に手を出されたら憤慨するでしょ….」と阿修羅を擁護したい部分もありますが、仏教的には阿修羅の「たとえ自分の行いが正義だったとしても、怒りに囚われ続けていては善い心を忘れてしまって悪にもなり得る」という心の持ちように着目しているようです。

世の中を見てみると、そういう人っていますよね。正義のためかもしれないけど、怒り狂ってしまって逆に迷惑をかける人。大義名分があるかもしれないけど、それしか見えていなくて、目の前が見えていない人。仏教って何百年も前に成立したのに、現代に生きる我々がふと気付いたり、共感できたりすることがあるのはすごいですよね。仏教だけでなく、他の伝統宗教や、哲学や神話も然りですが。

興福寺の後は、奈良公園で鹿と戯れつつ、東大寺へ。

奈良の東大寺にある毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)はいつ見ても感動します。何回も来ていますが飽きません。その大きさで全てを包み込んでくれるような安心感が伝わってきます。東大寺で今回の旅最後の神社仏閣となりましたが、最後に相応しい場所でした。

東大寺を回っていたら、ちらほら修学旅行らしき学生たちの姿が。コロナの影響で修学旅行が出来ないのでは、と思っていたのですが、観光客だけでなく修学旅行生の姿も徐々に戻っているようでした。

その後は京都まで特急で向かい(車内で食べた柿の葉寿司おいしかった)、新幹線で新横浜まで戻り、無事に帰宅しました。3日間、朝はいつもより早めに起きて、ひたすら歩いて、坂や階段を上ったり下りたり、自転車に乗ったり、時にはダッシュしたりしたのですが、不思議と疲れは一切ありませんでした。

今回の旅行はひたすら癒される旅でした。久しぶりに一人で奈良を旅したのですが、やはりいいですね。大人数でワイワイも楽しいですが、一人でじっくりマイペースに、というのも中々良いものです。

そして変にスピスピしすぎないのも良かったと思います。一時期は「土地の浄化」とか「お仕事」とか「お役目」とかで呼ばれたと思った時もありましたが、そういうことは一切考えずに、ひたすら「旅したい」という気持ちで旅が出来て嬉しかったです。勿論、今回の旅もそういった「スピ絡み」の要素があったかもしれませんが、旅の基本である「旅を楽しむ」ことを今回は満喫できたと思います。

まぁ、今までも行きたいからその土地に行っただけで、浄化とか役目とかそういうのは関係なくて、あんま考えたことは無かったんですが。

特にスピリチュアルの世界にいると、「パワースポットでパワーをもらいたい」とか「光の柱を立てるため」とか「土地の浄化をしよう」ということを目的として旅をする人もいますが、今回感じたのは、旅をする人の気持ちが喜びに満たされていれば、土地、神様、精霊、仏….等々も喜んでいる、ということ。そして勿論、現地の人々も喜んでいる、そして全ての波動が上がっていく、ということです。

だから、「封印を解くお役目」とか「エネルギーの流れがああでこうで」とか、探るのもいいですが、やはりそこで「旅を楽しむ」という気持ちは忘れてはいけない。すごく当たり前のことですが、僕自身、ちょっとその気持ちを忘れていたかもしれない、と今回の旅を通して少し省みることができました。

また奈良に行きたいです。

初夏の奈良旅 中編

前回の記事の続きです。

2日目の朝はゆっくりめな起床でしたが、電車の乗り換えの関係上、朝食時間を少し早めにしてもらっていました。というのも、この日は吉野まで行く予定でしたが、同じ奈良県内でも三輪からだと1時間30分くらいかかるからです。直線距離で考えればさほど遠くはないので、恐らく本数や乗り換えの問題かもしれません。

8時過ぎにお宿を出発。橿原神宮前駅から吉野方面の電車に乗りました。意外と乗客は多かったのですが、多くの乗客は途中の飛鳥駅で下車。吉野駅に到着する頃には1車両に2,3人くらいしか残っていませんでした。

10時ちょっと前には吉野駅に到着して、そこからロープウェイで金峯山寺の入口である黒門まで行きました。

黒門から銅の鳥居を通り、仁王門に到着。

残念ながら仁王門は現在修理作業中で通ることはできませんでしたが、あれだけ高い場所まで足場を組んだり防護ネットで覆ったりしているのを考えると、かなり立派な門なのかなぁと容易に想像できます。仁王門は蔵王堂と共に世界遺産に登録されているくらいですからね。

仁王門の脇にある坂を登って、ようやく金峯山寺蔵王堂に到着しました。

到着した時から、「あ、なんだか雰囲気が鞍馬寺に似ているな」という感じがしました。山寺は日本全国これまで数寺訪れたことがありますが、空気感というか、漂うエネルギーが、鞍馬寺のそれとすごく似ていたんです。

さっそく蔵王堂でお経を読もうと思って進んでいくと、ちょうど同じタイミングで別の上り口の方から一人の山伏さんがやってきました。見るからに修行中のような恰好をしていて、ぱっと見年齢は僕と同じくらい。とても慣れた様子でお経を読まれていました。

僕もお経を読んでいたのですが、ここで問題が。お遍路の時と同じように真言宗のお経を読んでいたんですが、そこでは最後に本尊のご真言(マントラ)を唱えるようになっているのですが、これがわからない!金峯山寺のご本尊は「金剛蔵王大権現」なのですが、勿論持っているお経には記載されておらず、しかも境内にもご真言が見当たらない(お寺によっては本尊のご真言が掲載されている看板や板がある所もある。ひょっとしたら自分が見逃していた可能性も大)。

順調に読み進めていって、般若心経を呼んでいる途中。「般若心経を読み終わった後のご真言はどの仏様のを読めばいいんだ~」と思いながら唱えていると、先ほどの山伏さんから、

「ノウマクサンマンダ・バザラダン・センダ…….」

と唱える声が聞こえてきたのです。

「あ、これって、不動明王のご真言?」とわかり、般若心経を読み終わった後に不動明王のご真言を唱えて、その後は光明真言などを唱えて無事に読経することができました。

もしかしてご真言がわからないということがテレパシーで山伏さんに伝わり、助け舟を出してくれたのかな、とか、上の存在が山伏さんを通じておしえてくれたのかな、とか、まぁ偶然かもね、と御朱印所で納経してもらっている時に思いました。でも納経してもらっている間、その山伏の方が御朱印所の受付の方に挨拶を去り際にしていたのですが、そこで一瞬その方と目が合ったのです。何かが共鳴したのかもしれません。

その後、境内を散策。そうしたらこんなものを発見しました。

曼荼羅です。本堂の前に曼荼羅(魔法陣?)。これ、鞍馬寺と似ていますよね。大きさこそ違えど、本堂前に置くという所が共通しています。ひょっとしたら日本には本堂の前に曼荼羅を置く寺院が他にもあるかもしれません(というか絶対あるはず)が、蔵王堂に来たときの雰囲気といい、曼荼羅といい、鞍馬寺とリンクする所が多いと感じました。

ただ、金峯山寺は歴史的に見ると鞍馬寺とあまり関係があるわけではないようで、元々は役行者(えんのぎょうじゃ)という修験道の開祖が開いた修行寺であり、鞍馬寺は鑑禎(鑑真の弟子)が毘沙門天を祀るために開いたお寺です。宗派も違うので共通点はないのに、なんだか繋がりがあるような気がしてなりません。ちなみに金峯山寺は金峯山修験本宗という宗派で、宗教・宗派という枠組みを超えて修験道の実践を広める宗派となっています。

その後は坂と階段をひたすら降りていき、脳天大神を目指しました。実は金峯山寺だけでなく、脳天大神も前々から行ってみたかった場所です。金峯山寺を調べていたとき、「脳天」というパワーワードに惹かれ、一度お参りしてみたいな、と思ったのがキッカケでした。

ひたすら降りていく、と簡単に書きましたが、実は金峯山寺から脳天大神までの道は人によっては大変で、永遠に続く階段をひたすら降りていき、帰りは登っていきます。後で調べてみたら445段もあるみたいです。抜け道のようなものは一切ないので、行く際には心の準備をしておいた方が良いでしょう。

脳天大神という名前から物凄い絢爛豪華なものを想像していたのですが、実際に行ってみたら凛とした空気が流れる場所でした。滝や水の音が気持ちよかったです。脳天は人間の首から上の範囲を指すので、その部分の御利益、例えば学業成就や頭や目の病気平癒に訪れる人が多いようです。

ここでお参りをして御朱印をいただいたら、なんとお供え物のゆで卵をいただきました。御朱印所の隣に休憩所があるので、そこでいただくことができます。塩とお茶はセルフサービスです。

そしてここで注意点があるのですが、御朱印帳をお寺と神社で分けている方は、脳天大神ではお寺の御朱印帳を出してください。そのことを示す注意書きが御朱印所の近くの壁に貼ってあったのですが、僕はよく見ておらず、「大神っていうくらいだから神社関係だろ」という安易な考えで神社用の御朱印帳を出してしまいました(ホント不注意ですね…)。明治以前は神仏習合で神も仏も関係がない時代もあったので、別に一緒にしたところで特に問題はないのですが、分けたい人はお寺用を出すようにしてください。

ゆで卵を食べながら思い出したのが、以前氷室奈美さんの鑑定で、金峯山寺に行きたいというお話をしたとき、氷室さんが色々と金峯山寺と脳天大神のお話をしてくれました。氷室さんは金峯山寺を始めとした吉野エリア一帯がお気に入りらしく、頻繁に訪れていると仰っていました。

そのときおしえてくださったのが、金峯山寺や脳天大神では観光客向けに護摩炊きをしているらしく、護摩炊きが終わるとゆで卵が参列者に振る舞われるという話でした。護摩炊きは日曜と特定の日に行われるので、今回は土曜日ということで護摩炊きは参加できないなぁ~、と思っていたのですが、有難いことに卵を一個いただくことができました。

卵は蛇や龍を祀る場所ではお供え物として使われるアイテムですね。三輪でも地元のお酒である三諸杉と生卵をお供えする風習があります。脳天大神は元々頭を割られた蛇を祀ったという由縁があるらしく、また、弁財天(サラスバティ)や龍といった水・滝・河の神様を祀っている場所でもあるので、卵を奉納しているようです。

卵をいただいた後は、ひたすら445段の階段を上って蔵王堂まで戻りました。445段であることに加えて傾斜もそれなりにあったので、ゆっくり登っていきました。

その後、吉野山の奥の方まで散策してもよかったのですが、歩くとなると時間がかかるのと、この日の午後は飛鳥エリアを回りたかったので断念。もし吉野山を楽しみたい方は車で回るようにすると便利かもしれません。

ロープウェイで吉野駅まで戻り、昼食後、橿原神宮前行きの電車で飛鳥駅へと向かいました。

飛鳥駅に到着後は、レンタルサイクルのお店へ。飛鳥は自転車で回ることにしました。

以前に仕事の関係で飛鳥を訪れたときは観光バスだったのですが、この辺の公共交通機関はあまり観光向きではないという話を聞きました。レンタカーにしようかと思ったのですが、一人であちこち回るということを考慮して自転車を借りました。電動機付きのやつで、一日1500円。安い。

レンタルサイクルのお店でもらった飛鳥の簡易マップを片手に、飛鳥観光に出発。ちなみに最後に自転車に乗ったのは大学生の時にバイトで通勤するために乗っていた以来なので、実に10年以上振り。久しぶりで乗れるかな、と少し不安だったのですが、身体って感覚をちゃんと覚えているものですね。すんなりとできちゃいました。

まずは高松塚古墳と併設されている壁画館へ。

展示されている壁画は模写したものですが、学生の頃教科書で見たあの絵を間近で見ることが出来て感動しました。国内外問わず、旅行に行ったときに教科書で見たものを間近でみると感慨深くなります。

高松塚古墳で驚いたのは、古墳のすぐそばに私有地の田んぼがあって、そこで地域の方々が農作業をしていたこと。てっきり古墳の区画だけ別世界な感じになっている様子をイメージしていたのですが、実際は古墳が飛鳥地域の一部として馴染んでいました。

高松塚古墳と壁画館の後は、飛鳥寺へ。知らない場所を自転車で回ることに多少の不安もありましたが、スピードを出し過ぎず、定期的に止まって地図を確認しながら乗れば全く問題ありません。

飛鳥寺は実は2回目の参拝です。以前は仕事で来たことがあるのですが、あまりじっくり参拝できなかったので、ゆっくり見たいな、と思っていました。

一般的な仏像と比べると、面長で鼻も高く、表情もアルカイックスマイル(モナリザのような微笑み方)で、どことなくギリシャ彫刻や西洋美術のような趣がある仏像です。個人的には、飛鳥寺の大仏は好きな仏像ベスト3に入るくらい好きです。

恐らく、シルクロードを渡って伝えられたからでしょう。法隆寺の柱とギリシャのパルテノン神殿の柱がどちらもエンタシスになっているように、昔は昔で技術面の国際交流があったのかもしれません。

飛鳥寺の仏像は向かって右から見るとやや険しい表情ですが、左から見ると柔らかい顔つきになっています。こういった所も計算して設計されているんでしょうね。

飛鳥寺の後は、岡寺へ。

西国三十三か所の七番目の霊場で歴史も古いお寺で、暴れていた龍を鎮めた場所がお寺の始まりになったことがら、龍蓋寺(りゅうがいじ)とも呼ばれているとのこと。

実はこのお寺は最初ノーマークで、時間調整のために軽い気持ちで訪れたのですが、お寺の雰囲気がすごくよかったです。手水舎には綺麗に蓮の花が敷き詰められていました。

ここのご本尊は如意輪観音なのですが、塑像としては国内でも最大級かつ最古のものの一つとされています。如意輪観音って身体つきがスマートな仏像が多いのですが、岡寺の如意輪観音は重量感があって圧巻でした。また岡寺は日本の厄除け寺発祥のお寺としても有名とのこと。しばらくは厄年ではないため、前厄あたりになったらまた来ようかな。

最後は石舞台古墳へ。

飛鳥寺に続き、ここを訪れるのは2回目です。

前回訪れた時もそう感じたのですが、石舞台は不思議な空気感のある場所でした。上手く表現できないのですが、「聖地」とか「パワースポット」というよりも、「異空間」という感じです。どこか別の場所にワープしたり、時間が巻き戻ったり早く過ぎたりするような気がしました。

その後はレンタルサイクルのお店まで戻って自転車を返却して、飛鳥駅から乗り継ぎをして三輪まで戻りました。

2日目もおばんざいのお店で地酒とおばんざいをいただき、宿に戻ってお風呂に浸かる。2日間連続で贅沢が出来るという幸せを感じました。

また、この日お宿に泊まりに来た男性二人組の方たちが昼間に行った酒造で買った日本酒を風呂上りに少しいただきながら、もう一組親子で泊まりに来ていた方と、女将さんも交えてしばらくリビングで雑談をしました。そして偶然にも、この日宿泊に来た全員がとある学校に所縁があるという共通点がわかり、前の日のMさんに引き続き、三輪の神様の巡り合わせを感じずにはいられませんでした。

この日の晩はすぐに床に就いたのですが、誰かに起こされた気がして午前2時くらいに目が覚めました。このお宿に来る度に不思議な現象は毎回のように起こるので「いつものことか」とは思ったのですが、今回は何もないのかなと思った矢先のことだったので、逆にその不思議な現象が嬉しく思えたりもしました。

【初夏の奈良旅 後編】へ続く。

初夏の奈良旅 前編

4月上旬。この時期僕は引っ越しが終わったばかりで、三輪に行きたい気持ちはあったけど、動けるような状態ではありませんでした。でも、5月になればさすがに落ち着いている頃だろうと思い、ゴールデンウィークが過ぎた後に行こうという計画を立てました。

ゴールデンウィークが終わったあたりで宿の予約を取り、今回は2泊することに。というのも、今回は三輪だけでなく、吉野の方にも足を延ばしたかったからです。前々から行ってみたかったのですが、ご縁がなかったり、予定の調整ができなかったりで叶いませんでした。今回は久しぶりの三輪一人旅ということで、二日目に吉野に行く時間が取れました。

そんなわけで、旅行の日程は5月20日(金)~22日(日)の奈良づくし3日間というゴージャスなプランになりました。

初日の朝。早い時間に家を出た後、スムーズに新横浜駅に到着。その後は慣れた動きで近鉄特急に乗り換えました。特急の中で、お宿の女将さんにチェックイン時間の連絡を入れると、「実は今日、偶然にも〇〇さんのお知り合いの方が泊まられますよ。誰なのかは来てからのお楽しみです!」という返信が来ました。

今回の旅は計画の時点で誰にも言っていませんでした(金曜日は有給を取ったので会社の人には伝えましたが、それ以外は伝えていません)。でもまさか、知り合いの人と同じ日に宿に泊まることになったのです。その後、橿原神宮駅に到着するまでの間、一体誰なんだろう、と考えていました。思い当たる人があまりにも多すぎたので、中々絞り込むことはできず。

奈良に来る時は毎回かなりの頻度でそうなるのですが、今回も乗り換えがスムーズかつ、早めの電車に乗れたので、当初予定していた時間よりも早めに橿原神宮前駅に到着することができました。

今回は三輪に行く前に橿原神宮に寄りました。というのも、大神神社の登拝はコロナの影響で今年1月から無期限で出来なくなっており、登拝無しだと三輪でかなり時間が余ってしまうからです。そのため橿原神宮にお参りをしてから三輪に向かうことにしました。

橿原神宮前駅は何度か待ち合わせや乗り換えで来たことはありましたが、橿原神宮への参拝は今回が初めてでした。

橿原神宮はとても穏やかな空気が流れている場所、というのが第一印象でした。平日ということもあってか参拝客は少なく、気持ちよく見て回ることができました。

参道を歩いている途中、参道両脇にある林に何らかの気配を察知してふと見てみたら、キツネ(実際のキツネではなく、見えない世界のもの)が数匹いました。恐らく眷属なのかもしれないのですが、下手に関わるのも危ないので見なかったことにして、ひたすら本殿の方へ歩いていきました。

お参りを済ませて御朱印もいただき、来た道とは別の道からしばらく境内を散策。

途中で畝傍山への登山道を発見。橿原神宮から登る道があるんですね。

そしてそことは別に脇に逸れる道があって、時間があったので試しに歩いて行ってみたのですが…ここで「お仕事」が降りてきました。今回はそういうのはせずに、あくまで気楽な観光をしよう、という方針でいたので無視しようとしたのですが、そのワークの特殊性から自分が無視できない雰囲気が強かったのですることにしました。センシティブな話題に触れることになるのでお仕事の詳しい内容は言えませんが、土地というよりも人(の想い)に関するものでした。

ワークのあと、そこからまた奥深い所に行く道があり、更に先に進んでいくことに。橿原神宮の敷地内かどうか正直微妙だったのですが、晴れた日の真昼間なのに光があまり届かない林の中の道に入り、なんとそこに明らかに古い神社があったのです。建物自体が古いのもあったのですが、メンテナンスが行き届いていないせいかボロボロになっている部分が放置されており、実際の年数以上に古い印象を受けました。

第一印象としては、「うわ、ヤバいとこ来ちゃった」。もう、嫌な感じがバシバシしました。その場所には申し訳ないですが。

そしてつい何分か前にワークしたばかりの自分。もう感覚が鋭敏+冴えわたってしまっていて、無視したくなるようなものも直視せざるを得ないような状況に。さっきの場所でやったのと似たお仕事なんですが、それよりも更にヘビーな内容でした。「あ、これはさすがに無理だ」と判断し、出来る範囲のワークを中途半端にならないようにさせていただき、その場所を去りました(やはりセンシティブな内容が絡んでくるので、詳細は割愛させていただきます)。

対処法が良かったのか、変な汗をかいた以外は何事もなく橿原神宮の参道まで戻ってくることができました。

ちなみにこの戻ってきたときに、50mくらい先の参道脇にある林の手前になぜかシラサギがいました(先ほどのキツネと違ってこれは実物…だと思います)。普通シラサギって川の近くにいるものですが、なぜかこの時は橿原神宮の参道脇の林の手前にいたのです。

「え?あれってシラサギ?」と思ってじーっと見ていると、シラサギはゆっくりゆっくりと林の中へ歩いていき、そして姿を消しました。あれは何だったんだろう。

橿原神宮からの帰り道、看板をふと見てみると、

どうやら橿原神宮には稲荷社があるみたいです。稲荷社ということは、参道脇の林でちょくちょく見たキツネはそこの眷属なのかな、と思い、妙にリンクすることがありました。

その後は橿原神宮を後にして、三輪へと向かいました。

前回三輪に来たのは2021年10月だったので、約半年ぶりくらいです。大勢で来て登拝した前回とは違い、今回は一人かつ登拝なし。三輪に来るときはほぼ毎回三輪山に登っていたのでなんだか寂しい感じもしましたが、コロナ感染拡大防止のためと言われたら仕方ありません。早く登拝が解禁になることを祈るばかりです。

大神神社の本殿や数々の摂社、狭井神社とお参りを済ませ、『あの場所』に。『あの場所』は三輪山の頂上と同じくらい濃いエネルギーが流れている場所です。登拝が出来ない代わりに、『あの場所』でお参りをしました。

そして『あの場所』でワークが降りてきたのですが、登拝と同じ神聖な場所のため、詳細は割愛させていただきます。ですが、さっきから割愛ばかりなのも申し訳ないので、お伝えできる範囲でキーワード程度でお伝えしたいと思います。それは、「宇宙船」、「ワームホール」、「鹿っぽい顔をしたデカい宇宙人」、「シリウス」、といった感じです。なんだかよくわからないとは思います…が、これがギリギリ出せる情報です。

ちなみに『あの場所』だけでなく、橿原神宮での二か所でも、ワークをするときは周りに人がいない、人払いされた状況で行いました。いくらなんでも知らない人が見たら怪しまれて通報…されるまではさすがに無いとは思いますが、怪しい場所だからもう来るのはやめよう、と思われたらその土地に住んでいる人たちに申し訳ないので、ちゃんと状況は判断してやるようにしています。スピリチュアルにも理性は必要です。

『あの場所』でしばらくワークをした後、山の辺の道を天理方面に歩き、玄賓庵まで行きました。こちらは前回の10月のときに行けなかったので、来るのは1年以上振り。お経を一遍唱えてお寺の中を見て回ったのですが、清浄な空気感が気持ちよかったです。ここでも他に人がいなかったのが、よかったのかもしれません。

それから山の辺の道を戻って、大神神社本殿まで散策しながら戻ってきました。その時は14時ちょっと過ぎ。いくらなんでもお宿のチェックインには早すぎるので、どこかで茶をしばいて時間を潰そうかな、と思ったときに、社務所近くに「写典のご案内」という看板が。

写典とはお寺の写経のようなもので、神社の場合は「大祓詞(おおはらえのことば)」を書いて神社に奉納します。写経は好きで定期的にやっているのですが、写典は今までにやったことがありませんでした。

時間もまだまだたっぷりあるし….やってみようかな?と思い、写典の受付をしました。初穂料を納めて、写典参加者用の襷を首から下げて、本殿を突っ切って写典の間へ通されました。ちなみに襷はこんな感じです。

登拝の白い襷とは違って緑色ですね。登拝が出来ない分、代わりに襷を身に着けることができたので、気分だけでも味わうことが出来ました。

そしてすごく嬉しかったのは、他に写典の間にいる人が一切いなかったこと。誰もいない空間で一文字ずつ向き合うことができました。

写典には、30分、1時間、2時間の3つのコースがあるのですが、今回は初めてで様子見な所もあるため、1時間コースにしました。途中集中力が切れて(不甲斐ないです…)、持ち直すために少し休憩を入れたので結果的に1時間30分くらいかかってしまいましたが、完成させることができました。

苦戦した点は、文字の大きさ。写経と一緒で漢字を一文字ずつ集中して書いていくのですが、一字一字が同じ大きさの般若心経の写経とは違い、写典では小さい漢字(恐らく平仮名の助詞や送り仮名を当て字で表したもの)が混ざっていました。これに慣れていないせいか、書きづらく感じました。

大神神社で写典をしたい方で筆ペンを使われる方は、マイ筆ペンをご持参されることをオススメします。写典の間にも筆ペン、そして勿論毛筆も置いてあるのですが(鉛筆もあります)、筆ペンのところに「筆ペンも毛筆と同じく、硯で墨を磨ってご利用ください」という注意書きがありました。最初はそれを見ずに書いていたのですが、「なんだか筆ペンの墨の出がよくないなぁ」と思って交換しに行ったら、その注意書きを発見したのです。そのため、硯に水差しで水を入れて、固形墨で墨を磨って、筆ペンに磨った墨をつけて書いていきました。ちなみに墨汁は置いてないので、墨は磨って作る必要があります。

ずっと集中していたせいか、終わったときにはドッと疲れが出てきました。肉体的な疲労がくるのは登拝で、写典は主に精神的な疲労でした。それでも1時間以上正座をしていたのにもかかわらず全く足が痺れなかったのは不思議でした。

確かにどっとは疲れたし、1時間のところを1時間30分という延長コースでしたが、神社の凛とした空気の中、広間を一人で悠々と利用して雑念を忘れて文字に向き合うことができました。またやってみたいです。

写典の後はチェックイン時間が近づいていたため、お宿に向かいました。

お宿には毎回ウェルカムボードがあって、その日に宿泊するお客さんの名前が書いてあるのですが、なんとその中に、龍の会のメンバーであるMさんの名前が。そう、偶然にもMさんと同じ日に宿を予約していたことが、そこでわかったのです!

365日の中から同じ日に、お互い予約を入れていたという奇跡が起こりました。ちなみにMさんとはお正月に新年のご挨拶を交わして以来、一切連絡を取っていなかったので、本当に偶然のめぐり合わせでした。

三輪の神様もなかなか粋なことをしてくれるなぁ、と思いながらチェックイン。前回10月に来たときは朝ご飯でしか利用しなかったため、お宿に宿泊するのは1年振りくらいでした。

しばらく他の宿泊客の方、お宿の女将さんと旦那さんと話をしていたら、Mさんがお宿に到着。この日は京都の鞍馬を観光した後に電車で三輪まで来たそうです。到着後は一緒におばんざいのお店で日本酒と美味しい料理を堪能しました。毎回ここのお料理とお宿のお風呂と朝ご飯が好きすぎて、三輪の神様には怒られるかもしれませんが、正直神社よりもそっちの方がお目当てだったりします。

Mさんとは久しぶりに色々と話すことができました。どうやらその後、色々と見えない世界でも現実世界でも変化があったようで、数年前に初めて会ったときよりも大きく変化しているようでした。

その後、お宿に戻ってお風呂を楽しみ、Mさんと女将さんとお話しをした後に就寝しました。

いつもお宿に泊まる時は何かしら起こるのですが、今回は何も起こらず。ぐっすり眠ることができました。

この日は朝早く起きたこともあり、2日目は朝食の時間ギリギリまで寝ていたかったので、朝の早朝参拝は最終日にすることにして、体力と気力の回復に努めました。Mさんは朝早く起きて大神神社に早朝参拝に行かれたそうです。

【初夏の奈良旅 中編】に続く。

鑑定会&透視講座のお知らせ

鑑定会と透視講座の日程が、太陽の結晶さんのブログで公開されました!

鑑定会は、

5月14日(土)、6月26日(日)、7月23日(土)

の日程で開催する予定です。対面は勿論のこと、Skypeによるリモートでの鑑定も受け付けています。

予約を入れたい方は、こちらのブログ記事をご参照ください。

第5回目の透視実践講座は、

6月25日(土)

に開催する予定です。

こちらは今までの透視実践講座と違うところがありまして、

1.今までの実践講座のいずれかに来場したことがある

2.対面のみ

3.ライダーウェイト版タロットのご準備

という上記3点の条件があります。

1.に関しては、今までの講座よりも深い内容となるため、初めて来る方が来られても正直「?」となる内容があるためです。

2.に関しては、タロットカードを使った実践的なトレーニングを導入しており、リモートだと手元が見えづらくなってしまうためです。

3.に関しては、2.で述べた通りです。

以前にもお伝えしましたが、僕は過去に占い師をしていた時期があります。超能力や霊能力を謳っていたことは一切なく、統計学やパターン分析で身に着けた占術(西洋占星術、タロット、手相)を使ってお客さんの悩み相談を受けていました。超能力や霊能力を否定はしていませんでしたが、自分とは縁があまりないものと思っていたのと、所属していた占い館がそういった能力で売ることを禁止していたため、そういったスタイルになりました。

しかし、その後多くの出会いや経験を通じて徐々に「見えない世界」との親和性が高まっていったのです。その中で親和性を高める方法の一つだったな、と振り返ってみて気づいたのが、タロットでした。

占い館に所属していた時、タロットのスプレッド(カードを展開して配置した図)には出ていない情報が何故かスッと出てきたり、タロットから映像が飛び出てきたり、ということが起きたのです。そしてそういった情報や映像は相談者の方にとって重要となるようなものでした。その後なんだか怖くなって占い館は辞めたのですが、タロットを使わなくても情報が降りてくるようになっていきました。

勿論、僕の経験は皆さんも同じようになることを保証することはありません。我々はそれぞれ違う人間なので、見えない世界や上の存在とは、自分が良いな、と思えるやり方で繋がることは十分可能です。ただ、個人的にはタロットを含む卜占(カード、サイコロ、石など、アイテムを使って占う方法)は直観力や霊能力に繋がる部分が大きい方法だな、と経験を通して実感しました。

だからそれを透視講座の中に組み込もう…と思ったのですが、一日の講座の中で全てをカバーするのは不可能です。そのため、「ひとまずはタロットを使って自分占いの基礎が出来る」ことを1日で出来るようにして、あとはトレーニングを重ねてもらおう、というような形にしました。とりあえずタロットの型を覚えるとか、統計学やパターン分析を見るといったところを扱います。勿論、その先の霊的な世界と接するようになる場合のことにも実体験を交えて触れる予定です。

ご興味のある方は、こちらのブログ記事をご参照ください。

皆さんにお会いできるのを楽しみにしています!

トワイライトマスター

先週のJCETIでのセッション後に、グレゴリーさんとスピリチュアル業界のディープな話をしたのですが、その中で「偽光現象」に関する話題も出ました。

偽光現象に関してはコチラ

で、僕も勘違いをしていた部分があるのですが、スピリチュアル業界で「おや?この人は?」と思うような怪しい人は、偽光現象の中でも、「トワイライトマスター」と言うんですね。

トワイライトマスター(twilight master)というのは、直訳すると「薄明りの指導者」という意味。twilightは日の出あるいは日の入り前後の薄明りの状態、つまり「明るくないので、目の前のものがよく見えない状態」を指します。相手の癒しや幸せを支援するのではなく、話術や演出で巧みにコントロールする(=洗脳する)、スピリチュアル業界で暗躍する人のことです。

例えば、アセンション情報に関して見当違いの(酷い場合は偽の)情報を流して人々の不安感を煽ったり、裏付けのない内容で陰謀論を発展させて人々を動揺させたりする人たちのことです。

アセンション分野のトワイライトマスターでよくいるのが、「アセンションゲートは〇〇年までに閉じるから早くアセンションしましょう」という方たち。終末思想を掲げるカルト教団とやっていることは似ています。ちなみに僕は上の存在から一貫して聞いているのは、アセンションゲートは閉じないというメッセージです。むしろ拡大し続けて、生きやすい世の中になるとのこと(最近のニュース見てると、三次元の自分としては「本当か?」と疑う部分もありますが、でもそうみたいです)。

陰謀論系のトワイライトマスターでよくいるのが、「光の勢力vs闇の勢力」という対立構造をつくって(勿論彼らは光の勢力側だと主張します)、フェイクニュースやデマを利用して「闇の勢力を駆逐しよう!」と呼びかける人たちです。そもそも個人が楽になる、幸せになることの霊的成長や霊性(スピリチュアリティ)を追求するのがスピリチュアルなのに、争いに加担して対立を煽るところがズレている気がします。

そしてこういった人たちの中には過激な思想になったり、カルトのリーダーになったりして、おかしな方向に走る人もいます。グレゴリーさんは、そういう人たちを「悪意のある宇宙人に乗っ取られている」と表現していましたが、確かになぁと思ったのが、そういう人の目を(対面でも画像や動画でも)ボーっとした状態で見てみると人間っぽくないな、と思うことがあります。時には顔が変化する人もいます。あれは多分、完全に乗っ取られているパターンだったのかもしれません。

個人的に体験したヤバいケースだと、「私には龍がいる」と言っていたスピリチュアル業界で有名なとある人には、龍とも言えない、蛇とも言えない、色んな動物がぐちゃぐちゃに合体したなんだかグロテスクなキメラが憑いているのが見えた、というのを見たことがあります。その人が着ていた「いかにも高貴な存在っぽい高そうな白や金の装飾があるローブのような衣装」との不気味なコントラストは今でも覚えています。あまりにも気持ち悪くてトイレに行ってしまうレベルでした。

あと、グレゴリーさんに言われて「なるほど」と思ったのが、「役割が終わった人」のこと。

とあるスピリチュアル業界で非常に有名な人に関して、僕が「偽光現象っぽくて個人的には合わないんです」と言ったら、グレゴリーさんからは「その方は役割が終わっただけですね」というお答えが。

確かに、メディアに出てきた当初や、本が出始めた頃はメッセージが心に響いたのに、最近は当たり障りのない内容で、全然響いていませんでした。その方は「人々の覚醒を手伝ったり、宇宙からの仕事をしたりする役割が終わった」からなんですね。役割が終わり、タレントビジネスの方へ舵を切った、ということです。

スピリチュアルな世界では自分の「感覚」を大切にしますが、情報を正しく見る「判断力」や「思考力」も時には必要になりますね。

3回目のLiquid Soul 個人セッション @JCETI

※こちらの記事に記載されている内容、効果、影響、結果等は個人の感想です。同様の、あるいは、類似したセッションを受けたりイベントに参加したりしても記載されているようなことが起きるとは限りません。

4月20日(水)にJCETIのLiquid Soul 個人セッションを受けてきました!

今年の3月初めくらいだったでしょうか。「そういえば過去2年、今くらいの時期にグレゴリーさんのセッション受けたんだよなぁ」と思い、予約をしようと思ったら3月は既に満員御礼。1年前はその月の空きを予約できるような賑わいだったのですが、ここ1年くらいでJCETIもグレゴリーさんも知名度が上がり、予約がすぐ埋まるような状況になったようです。

ただ予約ページをよく見てみると、キャンセル待ちのリストを受け付けている、との情報が。現在僕は融通が利く働き方をしているので、平日にキャンセルが出ても大体は対応可能な状態。「それじゃ、キャンセル待ちリストに登録して気長に待つか~」と思い、その時は登録をして終わりました。

そして3月末の某日。新居に引っ越したばかりで家具の配置や組み立てに悪戦苦闘している最中、一通のメールが。それはJCETIからのもので、「キャンセル待ちの方へのご案内」という内容で、4月のセッション予約開始日時をおしえてくれたのです。その後、予約開始日時にスタンバイをして、4月20日(水)の昼過ぎで無事に予約を取ることができました。

そして本日、開始2,3分前に都内某所の会場に到着。

グレゴリーさんと最後に直接会ったのは、2021年3月だったので、約1年振りの再会でした。

グレゴリーさんは僕のことを覚えてくれていたようで、まずは去年会った後からの近況報告をお互いにしました。そういえば1回目と2回目はずっと日本語で話していたのですが、今回は会った瞬間から終始英語(セッション中は日本語)。どうやら僕の前のお客さんと英語で話していたようなので、その流れだったみたいです。グレゴリーさんとはこれまでずっと日本語で話していたので、英語を話す姿は新鮮に感じました(本来はそれが自然なのですが)。

この日実は少しセッションルームの模様替えをしたらしく、ベッドの位置が変わったり、待機用の椅子やテーブルが替わったりしていました。前の状態と比べて広くなったような感じがしました。

そしてJCETIのセッションルームに来ると毎回感じるのが、何者かの視線。悪意は全くなく、むしろ好意的なものなのですが、これが毎回気になる。天使や宇宙人に見られるのも、人の視線と同じでどうしても気になってしまいます。

近況報告も一通り済ませ、セッションへ。過去2回は「エーテル手術」でしたが、今回は「生命の木・アチューメント」を予約しました。なんとなく今回はこちらの方に惹かれたので。生命の木はカバラ(ユダヤ教の神秘思想)に出て来るこの世の創造論を木のような図解で示したものです。生命の木には、ケセド、ビナー、イェソド…など、10個の球体が樹形図のように配置されています。

いつものように横になり、手放し宣言から。そしてグレゴリーさんと音楽による誘導で、どんどん深い世界へと入っていきました。

以下、感じたことなどを箇条書きにしました。

  • 首の後ろ、風門(肩甲骨の間)、腰の体感がありました。特に腰がかなり激しく、グレゴリーさん曰くどうやら生霊、他人の感情、浮遊霊…などを色々ともらっていたみたいです。
  • 実は最近、腰を悪くしていました。引っ越しの際に重い荷物を抱える機会が多かったからかな、とか、年齢的なものを考えるとぎっくり腰かな、とか考えていました(激痛はなかったので恐らくぎっくりではなさそう)。一応あれこれ工夫して養生してみたのですが、全く良くならず。でも今回のセッションが終わった直後から、急激によくなりました。霊的な影響が腰にきていたとは、盲点でした。
  • 今回も体感、というか身体の動きが激しかったようです。自分的には終始海の中を漂っているような感覚が続いていましたが、グレゴリーさん曰く、身体がかなり動いていたようです。
  • 「前回とは違って、オリオンの人たちが来ていましたね。中にはオリオン時代の〇〇さんもいました」と、グレゴリーさん。オリオンのことを指摘されたのは初めてなので驚いたのですが、オリオン時代の自分がいたことにもビックリ。高次元の世界では3次元的な過去・現在・未来はなく、全ては今ここに存在している、となんとなくわかってはいても、改めてこういうことを体験すると驚いてしまいます。
  • 恐らくスターファミリー(地球での人生を高次元から見守ってサポートしてくれている存在)の一人だとは思うのですが、「エフメト」という存在が降りて来たというか、出てきたというか、再会したというか…とにかくいました。セッション後グレゴリーさんに「エフメト」というのを聞いてみたのですが、特にピンとこないとのこと。
  • エフメトは地球の中近東に住む人のような浅黒い肌をしていて、中性的だけどどちらかといえば男性的な雰囲気と顔立ちをしている宇宙人でした。特徴をグレゴリーさんに伝えると、浅黒い肌はオリオン系に多いため、オリオン星人だろうとのこと。今このブログ記事を書いていて思ったのが、ひょっとしてこの「エフメト=オリオン時代の自分」という感じもしました。でもスターファミリーの可能性もあるし、何とも言えません。
  • 今回すごいなと感じたのは、グレゴリーさんの誘導に入る前に、体感があったこと。例えば、グレゴリーさんが「身体の左半身に….」ということを言う直前に左手と左脚が動いたり、「頭の方に(エネルギーが)昇って…」という直前に首から頭の体感があったりしました。グレゴリーさん、高次元存在、僕の3者でちゃんとエネルギー的な連携がとれて、共同作業が出来ていたようです。
  • セッションの途中から終盤にかけて、2本のらせん状のエネルギーの流れを感じました。ちょうどDNAの二重らせん構造のようでした。龍と似ているけど、またちょっと違う感じで、恐らくオリオン系の宇宙人のエネルギーなのかもしれません。力強くて太く、でも繊細な波動でした。

他にセッションの体感で思い出したことがあればまとめていきたいと思います。ひとまずはこれくらいです。

セッション終了後の休憩中にも雑談をしたのですが、色々とディープな話もできました。主にスピリチュアル業界の話なのですが、業界の中でも結構ハードコアな部分について触れました。ちょうどそのハードコアな世界で色々と起こっている時期でもあったため、タイムリーな話題に関しても話すことができました。

休憩も終わり、次の方の予約の時間が近づいてきたので、セッションはお開きに。また会いましょうね~とお互いに挨拶をしてセッションルームを後にしました。

帰宅中はセッション独特のボーッとした感じがありましたが、無事に帰宅。家に着いてからもその感覚はしばらく続いていました。意識はあって、目の前の状況は理解できるんだけど、どこか現実離れしている感覚というか。ここにいながら、別のどこかにも同時に存在している、というなんだか不思議な感覚でした。

そして今日でセッション終了から丸一日経ったのですが、相変わらず腰の状態は万全です!一過性のものかな、と昨日思った時もあったのですが、今日も腰の状態は快調で、かがんだり上半身と下半身をひねったりしても、違和感はなかったです。改めて憑依の影響って怖いな、と思うとともに、ガードして身を守ることを徹底しよう、とも思いました。

次のセッションは、やっぱり1年後かな。JCETIではCE-5のイベントも開催しているようなので、都合がつけば参加してみたいですね。

スピリチュアルと不謹慎は紙一重なのか

前回の記事を改めて読んで、自分自身気になったのが、

(ちなみに、それがたとえ不慮の事故や自然災害や理不尽な事件であっても、上の存在に言わせると、無慈悲に聞こえますが「起こるべくして起こって」います。)

という部分。

これは以前にもブログに書いたかもしれませんが、誰かに不幸が起こったときに「全ては起こるべくして起こっているんだよ」と言う人が一定数いるということを聞いたことがあります。誰かが亡くなって悲しい時に、「大丈夫。死んだらまた会えるから」とかいうとんでもない話も聞いたことがあります。

僕自身、そこまで失礼な人には幸いにも会ったことは無いのですが、以前に深刻な悩みをとあるスピリチュアルカウンセラーの方のセッションで話したら、「それは必然で、全て宇宙の計画なんです」と言われたことがあります。「確かにそうかもしれないけど、この悲しさに少しくらい共感してくれてもいいんじゃない?」と思ってしまいました。

確かに、上の存在に言わせると、起きる出来事には全て意味があり、世の中で起こる残酷な事件も、不慮の事故も、災害も「起こるべくして起こっている」なことです。

でも、それって3次元的な感覚だと全然慰めにはなりません。こっちは悲しくて、人を恨んだり、社会を非難したり、自分を責めたりしているのに、「必然」と言われたらカチンとくる人もいるはずです。

ちょっと話は逸れますが、上の存在、特に宇宙人というのは(我々の感覚からすると)結構ポジティブでぶっ飛んでいます。だからこそ、ちょっと不謹慎っぽく聞こえるような内容になることもあります。人間的な感情が理解できない(というか持っていない)くて、逆に我々が感情に振り回されるのが不思議みたいです。勿論、感情がわかる宇宙人もいますが少数派です。ぶっ飛んではいますが、根底には愛があるので、決して意地悪しているわけでも、バカにしているわけでもありません。

今地球上で生きている我々は、どうしても感情だったり常識だったりといった枠組みの中にいます。高次元のメッセージを現実に応用するときには、そういった枠組みを考慮に入れなければいけない場合がほとんどです(逆に一切考慮せずにそのままのメッセージを伝える方針の人もいますが、これは好みの問題で、個人的にはあまり好きではないです)。

だからこそ、スピリチュアル業界で活躍されている方って、霊的な世界と現実世界のバランスがよく取れています。相手の気持ちを汲みつつ、常識の範囲を考慮して上からのメッセージやエネルギーを伝えて、現実に落とし込むことができる。今この文章を書きつつちょっと心がズキっとするのは、自分自身で至らない部分があるからかもしれません。

スピリチュアルは不謹慎ではなく、やはり「どう伝えるか」が問題で、霊的な世界に造詣が深い人ほど現実的であり、バランスがとれているのかもしれません。

前世は手掛かりで、それ以上でもそれ以下でもない

鑑定をしていると、皆さんが興味のある話題が、1位:前世、2位:オーラ、3位:龍となるくらい、前世に関心がある人が多いです。「興味がある」というレベルなら全然問題ないのですが、前世を何か崇高なものと捉えてしまっている人もたまにいます。

どういう人かを紹介する前に、まずは前世とは何かを話したいと思います。

我々は今、この世に生まれてきて人生を生きているんですが、誕生する前に別の時代、別の国、別の惑星で生きていた人生があります。これが前世ですね。

ただ意外と知られていないのが、高次元の視点から見ると全ての時間は「今この瞬間」に存在していて、あらゆる可能性が枝分かれして存在しているということです。

つまり、戦国時代に武将だった時の自分と、レムリアの時代に瞑想をしていた自分と、今テレビを見てゲラゲラ笑っている自分と、UFOから地球に来訪している未来の自分(来世)も、全て「今この時点に」存在しているのです。

そして可能性が分岐しているということは、中世に農民であった前世もあれば、同じ時代に王族だったときもあり、近代でホームレスだった時に同じ時代に別の国で宗教家だったときもある、ということです。

我々が言う「前世」という言葉は実は3次元的な「過去・現在・未来」という考えに基づくもので、実際のところは「無限大にあるパラレルワールドのうちの一つ」ということになります。便宜上、「前世」という言葉で言っているだけなのです。

そのため、前世はいくらでもあります。鑑定では現在の状態に一番近い前世を見て、悩みや問題の解決になるヒントを得るための参考資料として使っています。旦那との関係で悩んでいる女性の前世を見たらアメリカ開拓時代の黒人奴隷だったけど、次の鑑定では旦那との問題が解消されていて、前世はアボリジニの語り部だった、というように、その人が変われば前世も変わります。霊的な世界は「類は友を呼ぶ」法則なので、現在の自分の波動(エネルギー)に一番近い前世がダブって視えてきます。

そういう話をすると、「え?前世って随分いい加減なんだ」と思うかもしれません。いい加減と言えばいい加減だし、すごく柔軟性があると言えば柔軟性があるし、ということになります。逆に言えば、それだけバッファがきいたものなので、前世が〇〇だから偉いとかすごいとか、前世のカルマがとか、そういうことはあまり意味がないということになります。

魂は株分けするし、可能性も無限大にあります。例えば織田信長の魂が細胞分裂のように株分けされて、次の世で別々の肉体に宿ることもあります(そしてそれは何十何百という単位じゃなくて、かなりの数になります)し、織田信長が前世だったパラレルワールドを選ぶこともできます。だからこそ、織田信長の前世を持つ人は何人もいていいわけです。

そしてカルマですが、はっきり言って前世のカルマ(業、今世に持ち越した宿題)は今世でちゃんと解消できるようなシステムになっています。しかも、何かお金を払って解消してもらわなくても、厳しい修行をしなくても、変な使命感を負わなくても解消できるように設計して生まれてきています。勿論、「そういうことをしないと解消できない」と思って、自分から望んでそういったことを選択しても問題ないです。ただ、解消のためにはそういう道しかない、という考えで堂々巡りをして苦しむスピ業界の人たちが多いのは事実です。

そういった話を踏まえて、僕が今まで出会ってきた「前世を崇高なものだと考えている人たち」を挙げていきたいと思います。

・前世が歴史上の偉人であると主張する人

僕はこれまで、織田信長の前世を持つ人数人、徳川家康、豊臣秀吉、源頼朝、卑弥呼の前世を持つ人…等、歴史上の有名人や偉人を前世に持つ人を何人か見てきました。言うのは自由だし、そもそも裏付けや検証は出来ないので言われたら「そうですか」と言うしかありません。

ただ、先ほども述べたように、魂は無数に分かれて別の肉体に宿るし、歴史上の偉人だった前世というパラレルワールドはいつでも選べます。だから卑弥呼の前世は世界中誰でも持っているようなものなので、言われても「そうですか」となるだけなのです。だったら邪馬台国の場所おしえてよ、とは思ったことがあります。ちなみに卑弥呼は複数人いた説もありますね。

今まで歴史上の偉人を前世に持つ人を見てきて共通しているな、と思ったのが、自信の無さ。肩書き、学歴、経歴、ステータスにコンプレックスを感じている人に偉人の前世を持つ人が多いな、と感じました。コンプレックスに感じた部分を穴埋めしようとして、素晴らしい(と思われる)前世を主張するのかもしれません。

最近の傾向としては、やたらレムリアやアトランティスの偉い人(神官、科学者、裁判官等)が前世だったと自称する人も多い気がしますが、個人的には偉人の前世を主張する人に通じるものを感じます。

いずれにせよ、前世が偉人だったからすごい、とかいうことは一切ありません。誰だって主張できるし、その偉人を前世に持つ人は株分けするから無数にいるし、どんな前世を持つパラレルワールドを選ぶことは誰にでもできるからです。

・前世のカルマで理由付けする人

「前世で悪行をしてしまったので、今世では浄化を使命としています」といった人も何人も見てきました。確かに、前世での「業(カルマ)」を今世で清算するために生まれてきている面もあるのですが、気になる点としては2つ。

1つは、「業(カルマ)」は悪行だけではない、ということ。前世の徳や善行もカルマとして今世に影響を及ぼしています。カルマのことを「負債」とか「背負うもの」というネガティブなイメージを持ちがちですが、決してそれだけではありません。人間というのは多面的な性質があるので、誰の中にも他者に尽くした前世もあれば、誰かを殺害した(それが故意ではなかったとしても)前世もあります。そもそも業、カルマ(karma)はヒンドゥー教あるいは仏教で「過去の行動の結果」という意味なので、良いことであっても悪いことであっても、「過去の行いは必ず自分に返ってくるものですよ」という意味なのです。何か一つの悪いカルマだけに焦点を当てるのは疑問です。

2つ目としては、先ほども述べましたが、前世のカルマはちゃんと今世で清算できるようになっていて、前世を思い出さなかったり、わからなかったりしても、自然と調整できているということです。勿論、今世だけでなく来世に持ち越し(持ち越すことは良いことでも悪いことでもありません)するケース、あるいは今世で準備しておいて、来世で解消というケースもありますが、前世のことを気にせずに毎日生きているだけで全然問題ありません。

カルマというのは上の存在に言わせると、人間からは「無数の張り巡らされた蜘蛛の巣のようなもの」なので、「前世で人を殺した→今世で誰かに殺される」といった単純なものではない、とのことです。我々の思考では追い付かないくらい緻密で正確なもので、「前世の〇〇が今世の××」とは必ずしもならないのです。裏を返せば、全ての出来事はちゃんと計算されて起こっているのです。

(ちなみに、それがたとえ不慮の事故や自然災害や理不尽な事件であっても、上の存在に言わせると、無慈悲に聞こえますが「起こるべくして起こって」います。)

前世のカルマは意識せずとも調整することができて、かつ人間の人智を越えた「よくわからないけど、上手く機能しているもの」なので、前世の悪行が現世の浄化のお仕事とはならない部分も多い、ということです。

・前世での縁を押し付けてくる人

個人的には今まで接してきた中で、一番厄介だと思ったのがこのタイプでした。どういうタイプかと言うと、例えば、

「あなたは前世で私と同じ魔女のグループにいました。だから今世でも一緒に仕事をしましょう」

などと言ってくる人です。

もうここまで読んでいただいた方なら既にお気づきだとは思いますが、前世というのは非常に柔軟性があります。たまたまそのタイミングで「同じグループの魔女」という前世が類は友を呼ぶ法則で引き寄せられる可能性があると言えばありますが、そうでない場合も勿論あります(本人がピンとこなければそうでない、と判断して大丈夫だと思います)。

それに、前世でそういう縁だったからと言って、今世で一緒に何かをしなければいけないか、というと全くそんなことはありません。むしろ個人的な経験から言えば、思い出したら縁は解消する場合がほとんどです(ちょっと具体例としてはズレますが、過去世退行催眠をすると現世での精神的あるいは身体的な症状が和らぐことがありますが、まさにそのようなもので、思い出すことで、「過去は過去、今は今」と切り分けて考えることができ、手放せるのです)。

中にはブライアン・ワイス博士の『魂の伴侶』に出て来るペドロとエリザベスのように縁が戻るケースもあるかもしれませんが、個人的にはそんなことは極めて稀で、縁遠くなったり、自然消滅したり、場合によっては喧嘩別れしたりするケースばかりでした。

最近聞いたちょっとヤバい実例としては、相談に来たお客さんの家族(旦那や子供)を前世の伴侶やら家族やらと相談者に言って信じ込ませて、家族まで精神的に支配した、ということを聞きました。下手な幽霊話よりも怖いです。

前世の縁を主張する人を見ると、「寂しがり屋」あるいは「構ってちゃん」な人が多い印象です。自分との関係性を強くして近くに置いておくために、前世の縁というものを利用している様子があります。でも、本当に縁があって大切な人なら、そうやって関係性を縛ることはしないですし、相手が思い出すまで忍耐強く待てるはずです。そして何より、前世に頼らずとも関係性を構築していけます。

と、色々と書いてきて、前世のネガキャンをしているような印象を受けるかもしれませんが、そうではなく、「前世を崇高なものとして捉えている(そしてあわよくば人間関係をコントロールしようとしている)人」が個人的には問題だなと思っていて、前世そのものはあって良いと思っています。というか、僕も鑑定で相談者の方の前世は視るくらいですから。

鑑定の時もそのように扱っていますが、前世はあくまでも今を生きるための「参考資料」や「手掛かり」のようなもの。大切なのは、そこから得たヒントや教訓を今の人生でどう生かしていくか、ということなのです。

期待しなければ裏切られない

最近ネットニュースの記事で、「人に裏切られたことなどない。自分が誤解していただけだ。」という故・高倉健さんの言葉を目にしました。

「そうだよな」と思い、何日も思い出しては「そうだよな」と、繰り返し思い、その言葉の深みを感じていました。

人間関係で我々は相手に対して「期待」や「理想像」を抱くものです。そしてそれは相手の肩書、経歴、特徴等に付随するものが多く、「高学歴なんだから、これは知っているだろう」とか、「男(女)なんだから、これは出来て当たり前だろう」とか、「大人なんだから、これは当然でしょう」とか。

つまり、自分の「期待」に反した言動を受けたとき、「あんな奴だったなんて!」とか、「失望した」とか思い、裏切られたと感じるということですね。相手に対して誤解した印象を勝手に持っていて、勝手に裏切られたと感じている。よくよく考えると、ただの独り相撲ですね。

今になって考えてみると、僕も勝手に期待していたなぁ~と思うことは枚挙に暇がありません。

たとえ恋人同士であっても、家族であっても、どんなに気心の知れた仲であったとしても、相手を「一人の人間」として見ることって難しいけれど重要で、「夫」「親」「友達」「親友」「彼女」「彼氏」「子供」といったフィルターを通してしまうからこそ、(勝手な期待をしていた自分のせいとはいえ)人間関係が辛くなってしまうのかもしれません。

スピリチュアルな分野で言えば、ヒーラーだとしても変に期待しすぎてはいけないし、所謂「龍遣い」とかチャネラーだったとしても、それだけで特別視する必要はないと思うんです。そういう仕事をしている「〇〇さん」として見る視点をどこかに持っておけば、スピリチュアル業界内で起こるようなトラブルも減るんじゃないかなぁ、と思っています。